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「杉の花粉」の独断と偏見に満ちた愛読書紹介コーナー

「杉の花粉」の独断と偏見に満ちた愛読書紹介コーナー

◎「うつ」の幻想:1「うつ」を衒うな!

 正しさを衒うな!「うつ」を衒うな!

 今日、届いた『審問(辺見庸著)』を読んでいます。
 半分ほどを一気に読んでしまいます。

 元々が大好きな作家ですが、脳梗塞に倒れ、病床からの『考察』酔ってしまいます。
 『部屋の中から自分自身で世界を考察する吉本隆明氏』の論調とは異なり、『行動で物事を突き詰めようとする辺見庸氏』が動けなくなった時の『思考』に魅入られてしまいます。

 『幻想と現実』、『喪明』、『自己身体からの考察』、『今までの徒労を数えるな』など、氏の印刷された言葉が、スッと頭の中に流れ込んでいきます。
 それは留まることなく流れ出してしまいますが、その快感は筆舌に尽くせません。

 3回目に読んだ時に、『辺見庸氏が何を訴えたかったのか』『朧気に判れば充分だ』という読み方をしています。
 それでも氏の文章が奏でる旋律に魅入られます。

 「見るため」「知るため」「考察するため」に世界中を駆け巡った辺見庸氏が、病床で考察する内容「今まで自分がしてきたことを否定する気は全く無い。」と先ず前置きされます。
 そして、例えば、「戦時中のベトナムでフェリーに乗るときに、地雷や戦火で身体の一部を失った者たちが集まってきて物乞いをする。」
 「右足に両手でしがみ付いてきた両足の無い物乞いに驚き、引き離そうとして、未だ年若い彼の右顔を蹴りつけてしまった。」と過去を思い出します。
 でも、思い出すときの「今の自分の視点はその物乞いになっている。」
 それは、「半身が麻痺して動けなくなったこと」もあるだろうが、「その時に感じていた二面性の忘れ去ってしまった方が痛烈に思い出されるのだろう。」という文章など、「安直な文章」や「独りよがりな思考」に慣れきった『脳髄』を直撃します。

 2年ほど前に「うつ」と診断されてから、「うつ」に関する事には、「うつ病患者」としての視点しか持てなかったような気がします。
 『職場に対して』『近所に対して』『親族に対して』『家族に対して』『全てのことに対して』『如何すれば良いのか』と考えてばかりいました。
 
 勿論、『政治』や『経済』や『社会的な出来事』放っておいた訳ではありません。
 発病前と同じ位、いやそれ以上に『拘ってた出来事』もあります。

 でも、そういった思考「うつ」とは無関係に進みます。
 「うつ」に関することは「うつ病患者」として悩み、考えますが、それ以外の事は「うつ」とは全く無関係に考えている『考察の二重構造』があったこと気が付きます。

 気付いた瞬間、身体を戦慄が駆け抜けます。
 以前と全く同じ『思考・考察』の中に「うつ病患者」としての『思考』が混じることなく『並存』していたことに驚愕します。

 せっかく「うつ」になったのだから、「うつ」としての自分をベースに置き直して、過去や今後の事象を眺めることの必然性を痛感します。

 〈衒うな。衒うな。衒うな。“知”を衒うな。正しさを衒うな。つよさを衒うな・・・〉辺見庸氏の文章が呟きかけます。

 正しさを衒うな。つよさを衒うな。「うつ」を衒うな。そして『自分自身』を衒うな。
 今はその『気構え』で一杯です。



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